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田辺巡査 [昔話]

その昔まだ私が小学生以下だった頃、私の母親は馬鹿息子たちの左脳・右脳の発達に少しでも役立てば、との不毛で切なる願いからか、NHKの教育ラジオ放送を家中で一日中つけっ放しにしていた時期があった。

当時の教育放送の中で子供心に特に印象に残っているのは、「基礎英語」とか「続・基礎英語」とか「英会話」シリーズ。田舎者故にまだリアルな外人を一度も見た事がない頃だったと思うが、さっぱり理解出来ない英会話の羅列を、何とも言えないリズムと音階を伴なった楽曲の様に聴いていた覚えがある。

そんな一連の英語のセンテンスの中で、妙に耳に残る、というか引っ掛かるフレーズがあった。

「田辺巡査」

彼・田辺巡査は、NHKの英語学系の放送にやたらめったら登場した。入門系、応用系、会話系、全ての語学放送に田辺巡査はひっきりなしに出現する。朝から晩まで。

英会話は全くキャッチアップ出来なくとも、ストリーミングされるコンテンツの中から「田辺巡査」という単語だけは確実に拾いあげれる耳の持ち主になった少年は、子供心に田辺さんって一体全体どんな人なんだろうか、と思っていた。ず~っと。

そんな疑問がある日、氷解する。田辺巡査の正体。それは、、、





「Television Set」

であった。



#メキシコ・オリンピックの水泳で
#マーク・スピッツがメダルを独占した頃の話である(多分)。

暑さと若さと女学生の視線と [昔話]

毎日うだる様な暑さの中、都会の鉄筋コンクリートと鉄材に覆われたオブジェクトに溢れる街中を少し歩くだけで、粘度の高い黄色い汗が全身の皮膚の上を流れる。

深夜にどんなに疲れ果てて帰宅した後でも、最低でもぬるい水を全身に浴びて汗を流さない事には、全身の粘ついたウェット感が放つ気持ち悪さで炭酸麦ジュースさえも落ち着いて飲む気になれない。

そんな最近の極めて普通な私だが、かつては日本で10本の指に入る程の不潔極まりない学生だった。

基本的に風呂に入らなくても全く平気な若者だった。5月~7月という何かとアクティブな3ヶ月間に一度も身体を洗わなかった事もある。勿論その間、入浴もシャワーも一切無し。顔も洗ってなかったかも知れない。

それでも個人的には当時の学生らしい金欠感と焦燥感と倦怠感と枯渇感に溢れた、女っ気の無いがある意味充実した生活を連日満喫していた。

それに歯止めを掛けたのが、忘れもしない教養学部の学生食堂でのシーン。

カレーライスをぱく付く私の前にテーブル越しに対峙していた見知らぬ3人の女子学生の目が、私にロック・オンしている事に気付く。

一瞬いい気持ちになるがどうも様子がおかしい。彼女らの視線は私のシャツを捲り上げた二の腕辺りに一様にフォーカスしている。

カレーのスプーンを持った腕を外にさりげなく開きながら、肘関節から手首に至る腕の内側のラインを覗いた私が眼にしたものは、

茶褐色に漁師焼けした皮膚を覆う灰色の垢(あか)の固形物だった。

その日の夕刻に近所の風呂屋に久々に出向いた時に嗅(か)いだ、石鹸の匂いがたまらなく懐かしい香りだった事を未だに忘れない。



#若かったあの頃、何も怖くなかった。
#1000年の時を超え、弱体化した只のオヤジと化した。

サッカーボールと母 [昔話]

小学校中学年の頃、サッカーボールが欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて堪らなかった時期がある。何故だか親におねだりをする事を良しとしない妙な潔癖症タイプだった私だが、流石にこの標的は小学生の有する経済力ではどうする事も出来ず親に訴え続けるしか無かった。

何ヶ月か経って学校から帰宅したある日、自分の机の上にまっさらのサッカーボールが鎮座しているのを発見。超興奮しながら母親の顔を振り返ると、大事に使いなさい。但し、誕生日までは我慢しなさい。とのメッセージ。

解った。大事にする。と神妙に答えた気がするが、蹴り倒す為に存在するサッカーボールを「大事にする」という事の意味が小学生の私には全く解ってなかったと思う。

それからは解禁日である自分の誕生日が待ち遠しくて仕方が無かった。それでも同級の友人達にはこの事実を嬉々として言い触らしていたらしい。

誕生日があと数日と迫った週末に学校のグランドで友人達と遊んでいた時の事、誰かがサッカーをやろうぜと言い出した。だが、事前に学校に申し入れてなかった為、備品のボールは借りられない。

皆の目が私に集中した。が、融通の利かない性格だった私は、まだ誕生日前だから駄目、と皆の期待を拒否する。

その結果、クラスの中で既にマイボールを持っていた△◇君に借りよう、という事になった。△◇君はその場に居なかったが、ついでに彼も誘っちゃえと。

グランドの場所確保班と△◇君のボールゲット班の2つに分かれる。私は前者でその場に居残った。

しかし待てど暮らせど、ゲット班が戻って来ない。△◇君の家は学校からそう遠くない筈だ。どうなってんねん。

はっと気が付いた。

留守か何かの理由で△◇君のサッカーボールを確保出来なかったあいつら(ゲット班)は、その後私の家にボールを借りに出向いているに違いないと。

頭に血がのぼった。場所確保係の他の連中にその場を託し自宅方向に走る。

校門を出てすぐにゲット班と出くわした。私の顔を目にしてぎょっとした表情が一瞬見て取れる。しかし彼らの手にサッカーボールは無い。

その中の一人が両手の人差し指を頭の両側で立てた。プツッと切れる音が聞こえた気がする。声を掛ける事無く彼らとすれ違い、脱兎の如く走る。

家にたどり着くと果たして母親が玄関でサッカーボールを持って立っていた。それを見た瞬間に何故だか自分でも解らない感情が弾けてわっと涙が溢れる。

事前の約束事も踏まえ、更に息子本人抜きでボールを借りに来た顔見知りの子供たちに、毅然としてそれを渡さなかった母。

しゃくりあげる私を見て母が言った。

おかしいと思ってお母さんがボールを渡さなかったんだから、お前が泣く事はないでしょう。



#未だに忘れない遠い日の想い出。

春うらら [昔話]

市民の為に整然と機能的に整備された駅前広場。その空間に点在するプチ花壇が四季折々の色彩を街角に漂わせる。

長女の手をとり一緒に歩く。

直前まで吸っていた煙草の乾いた香彩と入れ替わりに、甘酸っぱい花の香りがたわやかな風に乗って鼻腔の神経を優しく刺激する。

いい季節になった。

ゆったりよちよちと歩を進めていた彼女が、その時、何かの衝動にたまリかねたかの如く、私の手を振り切って俄かに走り出す。

その後ろ姿をぼんやりと眺める私。

隣接するファンシーショップのゲートから出てきた婦人が、そんな長女の姿を視線の端に捉えてにこやかに微笑む。親馬鹿と言われればそれまでだが、それぐらい当時の長女の振る舞いは愛らしかった。

婦人の視線に心の中で会釈しながら、余裕を持って長女の歩む方角を追いかける。



その瞬間、それまで優しい感情を漂わせていた婦人の目が、ふいに見開き、息を飲む音が聞こえた。しみじみとした情緒を委ねていた手綱(たづな)が突然第三者によって断ち切られたかの如く。

計測不能な胸騒ぎに従って長女の後姿に視線を戻し、更にその先を追う。果たして、そこに待ち構えていたのは、



愛らしいプチ花壇の手前にこんもりと生い茂る酔っ払いの嘔吐物。慌(あわ)てふためき我が子を追っかける親父(私)。



#はるか大昔のプチ大事件。

御袋のPCリテラシー [昔話]

10年前の事。

要らない。解らないし。という親父と御袋を、いいからまかせろ、と無理やり追い立てて地元の家電量販店へ連れ込む。パソコンの売り場へと一目散に向かった。

二人がうだうだ言うのと店員の更にどうでもいい説明の両方を手で遮(さえぎ)りながら、めぼしを付けていたコンパクトなデスクトップPCをとっとと購入。ぼーぜんとする親父御袋にかまう事無く、その場でプロバイダーの契約手続きもさっさと済ませる。

早速家に持ち帰ったPCをセッティング。デスクトップ上に必要最低限のアプリケーションのショートカットを並べた。

当時としては最先端のWindows MEマシン。

PCの電源の入れ方とシャットダウンの仕方、及びブラウザとメーラーの使い方の手順だけのドキュメントを作成し、プリントアウトする。

週末の工事まではWANネットワークには繋がらない。残念ながらそこまでは自分は立ち会えない。二人にそういった事を説明しながら、兎に角ネットに繋がったら直にその旨のメールを俺に寄こせ、とメーラーに自分のアドレスを登録して、最低限の使い方を伝授した。

色んな事を喋りすぎたので、何処まで理解してもらえたかはとても不安だったが、お構いなくその翌日には故郷の地を後にした。



果たしてその週末。

メールが届いた。全文ローマ字のメールが。

「toriaezu okutte mimasu. hahayori.」

といった内容だったと思う。おぉ、すごいじゃん、やるじゃん、みたいな返信を返した。

その3日後には日本語のメールが届いた。

「ぶじにとどいたらすぐにへんしんしてください。はは」

全て平仮名。その翌日には

「少しづつだけど解ってきました。また連絡します。母より。」

仮名漢字変換をマスターしつつある小学生の様なメールが届く。そして更に一週間もすると、

「こんな楽しいオモチャおプレゼントしてくれて有難う。m(_ _)m 母より。」

といった絵文字入りのメールが届くまでに。正直驚いた、というか何だかさわやかな感動を覚えたものだ。



後で親父に聞いて知った。プロバイダーの工事が終わった翌日から、駅前のパソコンスクールに夫婦揃って入会したのだと言う。親父は全くついて行けなかったが、御袋の執念はすさまじく、それに対応するスタッフもたじたじだったとか。

息子のある種の挑発に、敢然と立ち向かう様(さま)は、いかにもあの御袋らしい挙動だったと微笑ましく思う。



御袋がいじっていたそのPCの電源を先ほど数年ぶりに入れてみた。

 

Boot Errorが出て立ち上がらない。無理も無いか。

明後日はその御袋の七回忌。



#今更こんな事書いて、御袋、怒らないかな。許せ。

想えば遠くに [昔話]

幼稚園の送迎バスが平日朝の住宅街を行き交う。アンパンマンだったりキリンさんのそれだったりゾウさんだったり、園児の大好きなキャラクターデザインのそれが宅地の要所を走る。

打って変わって、私が何百年も前に幼稚園に通っていた頃は、一般の市営バスが当時の通園手段の拠り所だった。

自宅最寄の神社前の停留所に大人と一緒に並ぶ。目的の幼稚園前のバス停までの移動。朝は緊張している事もあり、特に失敗した覚えはない。

帰途が難儀だった。幼稚園でのイベントを終えてリラックスしまくりの幼児は、神社前で降りる事を忘れ一つ先の専売公社前まで乗り過ごすことがしょっちゅう。半泣きになりながら街道をてくてくとぼとぼ歩いたものだ。

ある日、一度だけ、更に先の中学校前のバス停まで乗り過ごした事がある。幼児にとって圧倒的に未知の地でバスを降ろされ、大泣きで喚(わめ)きながら来た方向を戻った。近所のおばさん連が何事かと心配していっぱい声を掛けてくれたが、その度に自分の絶叫音圧が更に上昇する。

今、帰省してその通りを歩いてみると僅か100m足らずの道なりに過ぎないんだが。



その後、親父の転勤に伴い暫く故郷を離れた後、中学校時代にこの地に戻る。当該中学校の角地に佇(たたず)む小さな貸本屋で下世話な与太雑誌を借りた時の事。

貸し出し帳に自分の名前を書いて小銭を番頭のお婆ちゃんに差し出す。その帳面に書かれた名前をしげしげ眺めながら、あれ、◆▼さんとこのお孫さんかいね、と彼女に声を掛けられる。

聞けば私の祖父にかつてとてもお世話になったとかで、当時の思い出話を朗々と語り始めたお婆ちゃん。

その話を聞きながら、うかつにやんちゃな事をこの地で出来ない事を思い知った。ご先祖様に恥を掻かすことは出来ない。



それから更に圧倒的な時を経た今、当該貸本屋はもう無い。お袋に頼まれて食パンを買いに行った駄菓子屋も、親父に言われてしんせいを買いに通った煙草屋も、かつてわくわくしながら行き着けたラーメン店もことごとく消えた。私が通った中学校さえも。

実家の最寄に位置する神社だけがそのまま残っている。



#第3者にはどうでもいい昔噺。

古時計 [昔話]

田舎の家の玄関をガラガラと開けると、真っ先に目に入って来る古時計。親父と御袋が以前アメリカ西部にしばらく滞在した時に、街中の古物商店?で見つけて気に入り、自らのお土産として購入してはるばる持ち帰った物。

商店でこれが最初に目に入った瞬間に、自分の家のこの場所に置いたら様(さま)になるに違いない!と閃(ひらめ)いたと、お袋が嬉しそうに言っていたのを想い出す。

          

#ほぼ、私の身長と同じ高さのこの時計台、
#残念ながら数年前から針の刻みは止まったまま。

米子にて#19 [昔話]

この正月に帰省した時、米子市街から日野川沿いに日本海へ抜け、海岸沿いに広がる皆生(かいけ)温泉界隈を散策した。その時に思い出した10年程前の出来事。

当時、よちよち歩きを卒業した世代の長女と次女を連れて愛妻(爆)と4人で皆生温泉の海岸に出かけた。そこは私が幼少の頃は海水による土地侵食が激しく、海水浴を楽しむのには極めて不安定な土地であった(というか禁止されてたかも)が、最近は湾岸に設置されたテトラポットの影響で、美しい砂浜が形成されている。

車を街並みの適当な空き地に乗り捨て、家族4人で砂浜へ。確か次女にとっては生まれて初めての海水浴だった気がする。

散々海遊びを満喫した。日が暮れてくる。名残惜しいが引き上げの用意を手早くして、車を置いた場所に皆で向かう。

白いカリブが遠めに見えた時に同時に目に入ったのは、その車の周囲で屯(たむろ)す、人相の良くない4人組だった。

この時点で初めて気づいたが、車を駐車したのは地元の風俗店のまん前だったらしい。次女をおぶったまま現場に近づくと、マイカーのドアとウィンドウが悉(ことごと)くガムテープで覆(おお)われている。

次女を肩からおろして愛妻(爆)に託し、荷物を置く。4人に順番に目線を合わせ「申し訳ない」と発して勝手に仁義?を切り、やおらバリバリとガムテープを剥がし始める。

4人組の中の一番若い衆が

「ここを何処だと思ってんだよぉ~!★◆%$&#▲× !!」

とかエキセントリックに息巻いて吼(ほ)えてくる。それを無視してガムテープを剥がし続けた。

彼らがそれを結果的に許したのは愛妻(爆)と2人の娘が束になって彼らに放つ硬直感だったのかも知れない。

ガムテープを剥がし終えると、家族を促して車に乗せ、とっととその場を立ち去った。



その夜、夕食時に家族の海水着が一切手元に残ってない事に愛妻(爆)が気付いた。皆で思い返してみるに、あの修羅場に置いてきたとしか考えられない。

やばい。

早速車で現場に戻る。怪しい紫色のネオンライトの元で客引きをする彼らの店の軒下に、果たしてそれらしい大きなビニール袋が見えた。車を止めて降りようとする私を愛妻(爆)が遮(さえぎ)る。

彼女曰(いわ)く、私が行くと事件になるかも、と。

一瞬意味が解らず訊(き)き返す私に構わずさっさと車を降りた彼女。彼らにすたすたと歩み寄り一言二言声を掛け、やおら荷物を抱えて戻ってきた。



#愛妻(爆)が所有する女の度量とやらを感じた遠い夏の出来事。

A先生に呼び出された [昔話]

昔話を。花の高校生時代の事。



花の、と書いたが、全く色っぽくない体育会系のクラブ活動にエネルギーの殆どを費やしていた私は、学校生活のどの行事よりも高い優先度を部活に割り当てていた時期があった。

その日は放課後の掃除当番だったが、よろしくと他の連中にさらっと言い残して学校の門を出た。競技の性格上、そのクラブの活動拠点は校舎とは物理的に数km離れた地点にある。



その日もぼろ雑巾(ぞうきん)の様になって部活を終え自宅に戻る。家に入ると兄貴だったか親父だったか失念したが、担任の先生から電話があり、帰宅したらすぐ学校に来る様に伝言があったと言う。

時間は既に夜の10時が近かった筈だ。

なんだよそれと訳もわからず学校に自転車を走らせ、職員室に向った。廊下から伺う限り室内は真っ暗にしか見えない。恐る恐る扉を開くと、担任の先生の机の辺りだけがぼうっと明るい。

ちょっとドキドキしながらそこに近づく。果たしてA先生がそこに独りで書き物をしながら佇んでいた。

動揺を隠して「こんばんは。」と明るく挨拶をしてみる。彼女の視線がゆっくり上がり自分の目線にロックオンする。

そこから説教が始まった。否、説教と言う感じではなく、メッセージともいうべき種類の彼女の感情が淡々と静かに放たれる。その日に掃除当番をサボった事など既に忘れていた自分は、それまでズボンのポケットに所在なさげに入れていた両手の拳を先生に気付かれない様に、ゆっくりと抜く。

最後に「◆▲(よたろうの本名)君にはそんな人間にはなって欲しくないです。」という言葉で締めくくられた。その台詞とイントネーションは今でも鮮明に覚えている。

夜中に職員室に独りでじっと残ってでも、夜中にわざわざ独りの生徒を呼び出してでも、それがその時に私に伝えたい彼女のメッセージだった。

普段の学校生活では比較的カジュアルな言葉で会話を交わしていたいつものA先生とは異なる、彼女の悲しみの感情が込められていたのが、若輩者の当時の私にもじんと伝わった。

自責の念とか感謝とか大人の仕事に対する想いとか、良く解らないが、私にもいつもと違うある種の感覚が舞い降りた、高校1年のある日の光景。



#翌年、彼女の長男が同じ高校に入学したのを覚えている。
#想い出の多いA先生だが卒業以来一度もお目にかかっていない。

キャセイ機内にて [昔話]

飛び立ったばかりの香港行きキャセイ・パシフィックのフライトフロア内で、美形のアテンダントが客席のカスタマーに次々と声を掛ける。

日本語。
英語。
広東語。
北京語。
韓国語。
タイ語。
マレー語。

席に座る客人の表情を見て適切に言語を使い分ける。凄いね。その懐(ふところ)の深い経験と知識に基づいた対応力。殆ど間違いなく適切な言語がヒットしている。

その彼女が、私の前でフリーズした。戸惑ってる。こいつナニモノ?その戸惑いが表情に見て取れる。しばらくその微妙な空気を楽しんだ後、

「愛 刑務 風呂無 沖縄」

とこちらから声を掛けると、嬉しそうにちょっと顔を綻(ほころ)ばせ流暢な日本語を口(くち)にした。

「カンゲイシマス。」



###随分昔の出来事ですが。。。

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